② Oiva Toikka Glass and Design part2

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Oiva Toikka Glass and Designを読み、思ったことや調べたことを書いています。

長いシリーズになると思いますので、気長にお付き合いください😊

間違っている箇所があるかもしれません。ご容赦ください。

ロシアのフィンランド侵攻による戦争で、Oiva一家は2度の転居を余儀なくされています。カレリアには2度と戻ることはありませんでした。

その後一家は、ヘルシンキから北へ20キロほど離れた森の中の村、Hämeenkylä(ハメーンキュラ)に居を構えるようになりました。Oivaは、交通手段がないため、毎日6キロの道のりを歩いて学校に通っていました。学校では、Oivaは美術の授業に熱中し、絵を描くことに高い関心を持ち続けました。

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Oivaのスケッチ(1950年代)          

カラフルで自由なところが好きです。

Oivaの足跡をたどる前に、戦後のフィンランドの芸術について少し調べてみました。

戦争について 外務省HPに年表がありました。この年表を参考にblogに記載している戦後とは、1948年以降としています。

戦後のフィンランドの芸術について

戦後、フィンランドは北欧の中でも貧しい地域でした。ロシアとの戦いで、土地を奪われただけでなく、多額の賠償金や難民を抱えていたのです。

デザイン性に優れ、品質がよく手頃な値段の実用的な家庭用品の設計と製造は、国家の課題でもあり、求められているものだったのです。その中で現在の礎となるフィンランドデザインは発展をとげました。

フィンランドを代表するブランドのMARIMEKKO(マリメッコ)も、戦後の1951年に創立されました。戦後の暗い時代にマリメッコの色鮮やかなカラーは、フィンランドの人々を明るく勇気づけたことでしょう☺️✨

また当時の伝統的な染物やプリントでなく、安価なシルクスクリーン印刷を用いたマリメッコのテキスタイルも、デザイン性に優れ、品質がよく手頃な値段の実用的な家庭用品ということで、人々に受け入れられたのだと思います。

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ウルティマツーレなどでも有名なTapio Wirkkala(タピオ・ヴィルカラ)、Iittalaでも活躍したTimo Sarpaneva(ティモ・サルパネヴァ)も戦後のフィンランドの工業デザインに大きな貢献をしています。

Oivaの学生時代

デザインの世界でフィンランドが成功する兆しを見せていた頃、

1953年、Oivaはヘルシンキ工業大学の陶芸学科に入学します。奥様のInkeri Toikkaとは大学で出会われたようですね❤️奥様とは、ネコやうさぎなどのかわいいモチーフのガラス作品やOivaとの共同のBird作品もあります。

Oivaは、当初はグラフィックデザイン科に入学希望でしたが、入学が許可されるか確信が持てなかったため、陶芸科に入学しました。

Curiously, Toikka was the only male student in the ceramics department,
a situation that he recalls with a smile.

不思議なことに、陶芸科の男子学生はToikka1人だけだったと笑顔で回想しています。

Oiva Toikka Glass and Design P21

結果的に、陶芸はOivaの豊かな表現と装飾センスを発展させるのにぴったりな場所でした。

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陶芸科では基礎的な花瓶や鉢などを学び技量を高めましたが、Oivaは次第に粘土をより自由に扱うことで得られる彫刻的な可能性に目を向けるようになっていきました。

個性的で独特な粘土へのアプローチに取り組み始め、それは学生最後の年に残した作品「THREE FISHES」に現れています。

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↑ 1956年「THREE FISHES」

よく見ると3匹の魚が…🐟🐟🐟

卒業制作的な作品でしょうか。この作品は美術館収蔵ではなく、Oivaの自宅にずっと保管されていた…と聞いたことがあります(お気に入りの作品だったのかな☺️💙)

3年後のArabia在籍時代にも学生時代と同じ魚のFISH PLATEを制作していますが、より洗練されたものになっている印象です(下写真)

1956年、Kaj Franckの招待を受け、大学の夏休み利用し、OivaはInkeri Toikka(旧姓Iissalo)含む2人の学生とともに、Nuutajarviの工場で研修生として働きました。工場で学びながら、Oivaは陶芸に取り組み、粘土の彫刻的な可能性を実験・探求するアーティストとしての道を歩み始めました。ここで、Oiva達はNuutajarviのArabia磁器工場とガラス工場の工業デザインの責任者及び講師でもあったKaj Franckの考え方を学びました。しかし、決してKaj Franckに染まることはなく、自身の独自性を追求していくのです。

工場での研修は、専攻していた陶芸以外の新しい素材(ガラス)にも触れる貴重な経験となりました。

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PLATE,VASE AND COLUMN 1955  Riihimakiガラス美術館収蔵

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↑  SCULPTURAL FORM  1955  Riihimakiガラス美術館収蔵

Oivaは上記のような、従来の型を破るガラスのオブジェを制作し、まったく予想外の形で表現しました。

Oivaの制作するオブジェはカラフルで、権威や伝統の制約から自由であり、工業デザインよりもむしろ抽象絵画や彫刻的陶芸の世界からヒントを得たように大胆かつダイナミックでした🌈これらのガラスの実験作品群は、後にOivaが制作する数々の素晴らしい作品の基になるものです。もちろんBirdもですね😊✨

Oivaの学生時代の話はここまでです。

私が現在も大好きな北欧デザインは、フィンランドの戦後に発展したことなどはあまり意識していなかったため新たな発見でした🌈また陶芸科からスタートしたことは、意外にも思いましたが花瓶や器ではなく、粘土への造形を追求するという形で進んでいったことはなんだか納得出来るものがあります。

ここまで読んで頂きありがとうございました🐦✨

次はOivaが大学を卒業した後のキャリアの話に移っていきます。

ご意見、ご感想などお気軽にお願いします🐥~

Oiva 足跡年表(自分の備忘録的な目的です)

・1931年 5月29日 Oiva Toikka 誕生

1953年 ヘルシンキ工業大学陶芸学科に入学

・1956年 Nuutajarviの工場で研修生として働く

 

参考文献

Oiva Toikka Glass and Design 

AERA 2017年2月6日号 

外務省HP フィンランド 一般事情の項