③ Oiva Toikka Glass and Design part3

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Oiva Toikka Glass and Designを読み、思ったことや調べたことを書いています。

長いシリーズになると思いますので、気長にお付き合いください😊

間違っている箇所があるかもしれません。ご容赦ください。

前回は、戦後のフィンランドデザインとOivaの学生時代の話でした。

今回は卒業後の話になります。

1956年から1959年までArabia(アラビア)社で活躍します。アラビア社在籍時代の話です。

卒業後は、本当の意味で自分の才能が試されていくことになります。今もそうですが、卒業後に仕事を得て食べていくということは、極めて重要なことでした。

OivaとInkeri Toikkaは1956年にヘルシンキ工業大学の陶芸学科を卒業後、フィンランド最大の磁器工場であるアラビア社のアート部門でデザイナーを務めることになりました。

2人は大学を卒業し、1年後の1957年に結婚しました🤵‍♂️👰💕

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↑OivaとInkeri Toikkaと3人の息子(Jussi,Ville,Tuomas)さん

🍀息子さんの名前の順番は写真と違うかもしれません💦 そっくりですね☺️✨

立て続けに2人の子どもに恵まれたため、奥様であるInkeriは、育児に専念することになりました。

当時、1951年と1954年のミラノ・トリエンナーレで大きな賞を獲得し、大成功を収めていたアラビア社は、国際市場の拡大、特にアメリカへの進出に力を入れていました。

Oivaはアラビアで、Birger Kaipiainen(ビルガー・カイピアイネン)、Toini Muona(トイニ・ムオナ)、Kyllikki Salmenhaara(キーリッキ・サルメンハーラ)、Rut Bryk(ルート・ブリュック)、Michael Schilkin(マイケル・シルキン)など戦後間もない時期に活躍した著名なフィンランド人陶芸家と交流し、彼らのアシスタントを務めていました。
今でも馴染みのあるビックネームばかりです!

左から順に:Aune Siimes , Michael Schilkin , Toini Muona , Friedl Holzer-Kjellberg ,
Kurt Ekholm , Leavon Mickwitz , Birger Kaipiainen , Rut Bryk


アラビアのアート部門は1930年代初頭に設立され、アーティストやデザイナーが陶芸により実験的に取り組むことが出来る自由で創造的な環境を提供することを目的としていました。

アラビアのアート部門の理念と精神は、創造的な自由主義で、より彫刻的で芸術的な次元の作品が好まれ、陶芸科達は特定の作業手順に従ってはいなかったようです。

これはKaj Franckの大量生産のためのオブジェのデザインを求められる工業デザイン部門とは対照的でした。

当時のアラビアのアート部門にいたアーティストについて
Birger Kaipiainen(ビルガー・カイピアイネン)
1950年代はフィンランドデザインの黄金期とも呼ばれ、その中心にいたアーティストです。OivaがKaipiainenのデザイナーチームに入った時は、Kaipiainenはスウェーデンの陶磁器メーカーであるRorstrandに在籍していましたが、アラビアを頻繁に訪れ、その影響力は大きいものでした。 

Oivaより16歳年上で、Oivaを可愛がっていたようです。Oivaと同じカレリア地方出身です。同じ出身地で仲良くなっていったのかな、なんで想像が膨らみます😊✨
Kaipiainenが手がけたもので、PARATIISI(パラティッシ)シリーズやシロツメクサ(クローバー)が描かれたAPILAなどはあまりにも有名だと思います。

私は北欧食器には疎いのですが、その私でも知っている、まさにそんな偉大な方です。
独自な芸術作品の製作にほとんど専念し、大量生産の食器をデザインすることにはめったに脚を踏み入れませんでした。演劇、音楽、バレエ、オペラ、そして故郷のカレリアから多くのインスピレーションを受け、常に新しい表現方法を模索しており、Kaipiainenにとって工業デザインは脇役に過ぎなかったのです。

Kyllikki Salmenhaara(キーリッキ・サルメンハーラ)
卓越した轆轤の技術を芸術にまで磨き上げた、女性陶芸家です。彼女のつくる作品は、シンプルで印象的なフォルム、力強いライン、部分的に施釉された凹凸のある表面など
素地の質感を生かしたものが特徴です。1956年に奨学生として渡米後は、国際性と新しいアイディアを持ち込み、独自の作風を発展させ、ミラノトリエンナーレでグランプリを獲得するなど、国内外で高い評価を受けました。

Rut Bryk(ルート・ブリュック)
職人たちと共に独自の成型技術を開発し、巧みな釉薬技法とスタンプやエングレービングによる加飾で植物や鳥、動物、建物など日常をモチーフにしたオリジナルの陶板をつくりました。重厚でエレガントな釉薬の輝きと、独自の自然観にもとづく繊細な図や形態は、今も多くの人々を魅了しています。
ブリュックの夫は、フィンランド・デザインの巨匠タピオ・ヴィルカラです。(調べるまで、知りませんでした😅)

RutとTapioを引き合わせたのはKaipiainenのようです😌💕(家庭画報ルートブリュック特集2019.8.23より)

フィンランドのエスポー近代美術館(EMMA-Espoo Museum of Modern Art)に夫妻のコレクションが多数収蔵されているようなので、一度は訪れてみたいです!

Michael Schilkin(マイケル・シルキン)
ロシア出身のカリスマ的人物で、アートセラミックの世界では国際的にも高く評価されています。陶芸作品のほか、彫刻家として動物等をモチーフとした作品を多く生み出しました。Schilkinの彫刻作品は、表面に大きく溝をつけ質感豊かにし、青磁や銅赤の釉薬を使い仕上げ、見る人に緊張感とドラマティックな印象を与えます。
アラビア時代にOivaがメインアシスタントを務め、多くの影響を受けた人物です。
Oivaは、師であるSchilkinのモダニズム(近代主義)の制約に縛られない、エキゾチックかつ原始的、瞑想的かつユーモラスで遊び心のある創造的な精神に、同属的なものを見出していました。Oivaがこの時代に残した彫刻作品にその影響を見て取れます。

象徴的、異国的、彫刻的なものを強調する技法は、Oivaが技術的、美学的に熟達することでより顕著になりました。古代の雰囲気を持つ彫刻的な「HORSE」という作品や高度に様式化された人物と細かいディテールを持つより造形的な「ROMULUS AND REMUS」にそれを見ることが出来ます。

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「HORSE」1958

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「ROMULUS AND REMUS」1958
ロムルス とレムス は、ローマの建国神話に登場する双子の兄弟で、ローマの建設者。

またこの時期には、拷問を受けたような姿勢、苦悶の表情、腕が横に伸び、実際の身体をのぞき込むことが出来る開口部を持つ、やや不穏な印象を受ける「STANDING FIGURE」(立像)もあります。古代ギリシャ、ローマ、古代のテーマは、この時期のOivaの創作活動の多くを占め、彼のキャリアを通じて何度も繰り返し登場することになります。

OivaはSchilkinのアシスタントになり、初めて彫刻制作の実世界に足を踏み入れ、また同時期にいたアラビアの多彩なアーティスト達と関わることで、才能を開花させていきました。

Oivaの作品は、近代主義的なタピオ・ヴィルカラやティモ・サルパネヴァよりも、視覚的・概念的な意味でBirger Kaipiainen(ビルガー・カイピアイネン)やMichael Schilkin(マイケル・シルキン)に近いものがありました。

この時期のOivaの陶芸作品にmajolica技法を用いた怒った顔の魚のプレート「FISHPLATE」があります。

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「FISHPLATE」1959
majolica技法は、Oivaのお気に入りの技法の1つで、豊かで繊細な装飾を施した表面に強烈な色彩を実現できる技法です。魚のモチーフは、Oivaが学生時代に制作した「THREE FISHES」に似たものがありますが、より高度に装飾され洗練されたものになっています。
「THREE FISHES」については、blog記事のpart2を見て下さい~。

民藝や農民文化へのオマージュは、カレリアへの出自に回帰しているように思われます。

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「SISTER AND HER BROTHER」1958
1958年、Oivaは初の陶芸作品の個展を開いています。
エキゾチックな人物や動物、建物のイメージを描いた一連の陶板「SISTER AND HER BROTHER」を展示しました。

Oivaは1959年にアラビア社を退職しています。在籍期間はわずか3年でした。

なぜその職を辞したのでしょうか?
理由は家族のためでした。
1957年に結婚後、すぐに2人の息子に恵まれ、また3男も産まれたため、Oiva1人の給料で家族を養っていくのに不安を覚えたのです。アラビア社は売り上げ高に応じた不安定な労働形態だったため、もっと安定し経済的にもいい職場を探しました。

1959年の秋、Oivaはヘルシンキの芸術教育学科に入学し、教員資格を取得しました。教師として卒業すると、まずMARIMEKKOのデザイナーとして夏の臨時ポストにつき、当初はMaija Isolaとともに創立10周年記念展に取り組みました。MARIMEKKOのために、CHICHWEEDやHEMPなど4種類のファブリックをデザインし、Annika Rimalaの最初のコレクションに使用されました。

1年後の、1960年の秋にOivaはラップランドにあるSodankyla高校の美術教師として働き始め1963年まで勤めました。教師であった3年間は、もちろん楽しんでもいましたが自分の芸術活動を発展、修練する機会はほとんどありませんでした。

アラビア在籍時代のお話はここまでです。

私は、スカンディナビアの著名デザイナーさん達の名前とデザインしたプロダクトしか知らなかったのですが、調べることで当時の交流なども想像できて、嬉しくなりました✨

特にRutとTapioを引き合わせたのはKaipiainenや、KaipiainenがOivaを可愛がっていた辺りにグッときます(笑)

読んで頂き、ありがとうございました〜😊✨

次回は、高校教師を辞めNuutajarviのガラス工場で働き始めてからのことを書こうと思います。

Oiva 足跡 年表(自分の備忘録的な目的です)

・1931年 5月29日 Oiva Toikka 誕生

1953年 ヘルシンキ工業大学陶芸学科に入学

・1956年 Nuutajarviの工場で研修生として働く

1956~1959年 Arabia在籍(アート部門)

1959年 秋 ヘルシンキの芸術教育学科に入学し、教員資格を取得

1960~1963年 高校の美術教師

 

参考文献

Oiva Toikka Glass and Design 

家庭画報 2019年8月23日